電子チラシの裏

無方向の言葉

天気の子を直視できなくなった

 

天気の子が地上波で放送された。

しかし、自分はそれを最後まで見ることができなかった。

穂高が陽菜の家に行ったあたりでもう見るのをやめてしまった。

 

もともと、この映画は友人と共に映画館で見た。

なので話の内容は覚えているし、今更見直さなくてもいいだろうと考えてのことだった。

 

しかし、それはあくまでも後付けの理由だ。

本当は別の理由があった。

本当は、あの作品を直視できなかった。

 

あの作品が余りにもまぶしいが故に、視界に入れたら目と脳が焼き切れるような感じがした。

 

青臭い人間の物語

天気の子は、基本的に青臭い人間の話だ……と自分では思っている。

家を飛び出していきなり東京に来てしまう穂高は青臭い。

その穂高ハンバーガーをおごる陽菜も青臭い。

社会の荒波に翻弄される穂高も青臭いし、水商売落ちしかける陽菜を助けようとするのも青臭い。

 

とにかく、むせかえるほどに青臭い。

そんな青臭い二人に感化され、ケイスケ?とナツミ?*1も青臭い行動を取るようになる。

 

青臭いってなんだ?

青臭いとはどういうことなのだろうか。

自分なりに考えて出てくるのは「無垢」「イノセント」であること、だ。

それは、言い換えれば単純という言葉で表される。

無知で無学で性善説を信じていて、世界のことを何も知らない。

 

しかし、それが青臭いと言うことだとするならば、ケイスケやナツミはなぜ、最後の最後で警察世話になるようなこと*2をしてしまったのだろうか。

 

彼らもまあそれなりに辛酸はなめている。

世界の残虐性を知っている彼らが、残虐性の記憶を保ったまま、無垢の状態に戻ったのだろうか。

 

セカイ、ここに極まれり

セカイ系の本質とは「キミとボクだけの世界」だ。

「オメェいいヤツだな! 俺らの仲間になれよ!」「オメェは敵だからブッ飛ばす」

(敵と味方で明確な線引きをするチーマー文化)

というワンピース的な世界観が近いのかもしれない。

天気の子もその流れにあって、主人公とその周りの人間にしかカメラの焦点があっていない。

 

《その他の人間(モブ)》も当然いるはずだが、生活の色が見えない。

その様子が、恋の盲目な少年少女の「キミしか見えない」的な状態に見える。

 

あるいは厨二病的な「一般人に興味はない……」みたいな。

 

それがなんだか小っ恥ずかしい。

 

まぶしすぎるぜ……ッ!

最後はスーパーハッピーエンド。

秒速某とかやってた頃からは考えられない結末である。*3

 

劇場公開されていた当時は、それを「よかったね」と思えたのだが、今はそもそも目を合わせることすらできない。

天気の子が劇場公開されていたのは2019年。

今現在において、丸一年と数ヶ月が過ぎている。

 

その一年の間に色々と経験を積んだ。

家族がひとり減ったり、新しい挑戦をしたり、留年したり、承認欲求に踊らされたり、夢をあきらめたり、*4などなど。

 

その過程で、自分はもう青臭い人間ではなくなってきてしまったのかも知れない。

しかし、まだまだ知らないことはたくさんある。

 

平日休日問わず、家に閉じこもって本を読んでいたような人間だ。

学問的な知識は、その手の学習をしていない人よりはあるが、それ以外はからっきしである。

 

良いようによっては、自分は「無垢人間」認定しても良いはずだ。

それなのに、なぜ天気の子は直視できないのだろうか。

 

むずがゆくて、すぐにでも答えを出してしまいたい。

しかし、答えを出してしまったらそれ以前に戻れないような危機感もある。

 

もう少し、知らないままで過ごしてみるか

*1:名前を忘れた

*2:とはいっても、警察も警察で結構簡単な事でしょっ引くか……

*3:新海誠監督について、昔の方が良かった等と言うつもりはない。彼もさんざん苦悩した結果が「君の名は。」以降のポップ路線だと思うので。むしろ一番納得がいってないのは本人なのではないだろうか

*4:ラジバンダリとかサルバトールダリとは言わない