電子チラシの裏

無方向の言葉

竜とそばかすの姫が面白くない本質的な理由

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端的に言ってしまうと「視聴者のせい」です。

 


細田守とは

 

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細田守の出自は、元々キッズアニメにあります。
明日のナージャおジャ魔女どれみでの演出がオタクたちの目につき「なんかスゲー監督がいるぞ」と業界を騒つかせました。


そこからデジモンの劇場版を作り、ぼくらのウォーゲームを作りました。

 

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ぼくらのウォーゲームのヒットによって、細田守の花道は始まったと言えるでしょう。
しかし、それは祝福であると共に呪縛でもあったのです。


始まりのウォーゲーム


ウォーゲームのヒットにより,細田守の名はアニメファンの間で不動のものになりました。
が、それは、あくまでもアニメファンの間の話。


世間でアニメ監督といえば、宮崎駿の名前が語られるくらいで、細田守なんてメジャー作家には程遠い。


そこで、細田守は自身の最大のヒット作であるぼくらのウォーゲームをリメイクすることにしました。


それが、サマーウォーズです。


2度目のウォーゲーム

 

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サマーウォーズのメインプロットや構成要素はほぼウォーゲーム*1と同じです。
中身は同じなのですが、パッケージを変えました。


具体的には、要素のいくつかを反転させています。
まずヒロインの性質の反転。
ウォーゲームのヒロインがほぼ冒頭とラストにしか出てこないのに対し、サマーウォーズはガッツリ本編に絡んできます。


その役割についても、大きな違いがあります。
ウォーゲームのヒロインは「男性(主人公)にとって不可解な女性」であるのに対して、
サマーウォーズのヒロインは「男性にとって憧れの女性=トロフィー」に変更されています。

 

ウォーゲームのヒロインが闘いとは関係ない、別の並列した物語に位置していたのに対し、

サマーウォーズのヒロインは、戦いに勝利したことの報酬として直接的に位置づけられています。


また、別の要素としては家族の反転が挙げられます。
ウォーゲームの家族は大人と子どもの分断を描いていました。


これの理由はデジモンが放映された時期に求めることができます。

デジモン放映開始の1999年という時代が、ちょうど核家族化が社会問題になり始めた時期と重なるからです。

 

両親は共働きで、子どもは鍵っ子で、子どもたちは自分のことをなんでも自分でやっていた時代*2


すなわち、「子どもが大人を信頼していない時代」です。
そうした時代背景があったからこそ、子どもたちは「大人はみんな信じないけれど,この世界には危機が迫ってるんだ!」「立ち向かえるのは僕らだけだ!」という荒唐無稽なファンタジーに乗っかれたわけです。


対するサマーウォーズでは、逆です。
まず主人公が属することになるのは大家族。
大人もいれば子どももいます。
そしてその両者は、交流の多い少ないはありますが、分断と言えるほど断絶はありません。
主人公は最終的に家族全員からの承認を受け、応援を受けた上で戦い、見事勝利します。

その様子からは大人も子どもも信頼しあっているように感じられます。


サマーウォーズの功罪


ぼくらのウォーゲームサマーウォーズ
どちらの方が多くの人に愛されているかは言うまでもないでしょう。


サマーウォーズは幾度となく金曜ロードショーで流され、ぼくらのウォーゲームは無かったことにされている……それが全てです。*3


サマーウォーズのおかげで,アニメオタクの認知する名でしかなかった細田守は、一挙に国民的作家の名になりました。


サマーウォーズがウケたのにはいくつか理由がありますが、その最大の理由は「デジモンというタイトルを切り離したこと」でしょう。


デジモンという、いわゆるキッズアニメのタイトルが付いただけで「自分には関係ないや」と思って見ない人は多いということです。


ウォーゲームがキッズやオタクの域を出なかったのはその障壁によるところが大きかった。
しかし、ウォーゲームという物語自体の持つポテンシャルは凄まじく、事実、これを全くそのまま流用したサマーウォーズは大ヒットしました。


これで細田守は、めでたくメジャー作家の仲間入りを果たしたワケですが……思うにこのタイミングで彼に呪いがかかった気がします。


言うなれば、オリジナルの呪いです。


細田守はオリジナル作家ではない


細田守の出身はキッズアニメの演出です。
つまり、明日のナージャおジャ魔女どれみという原作が元々あって、「それをどう味付けするか?」という仕事をしていたのです。
そしてその仕事が評価されたから、監督として大成した。


その後はデジモン劇場版で評価され、ワンピース劇場版(オマツリ男爵)で賛否両論(主に否)を巻き起こし、時かけでヒットを飛ばし、サマーウォーズでメガヒット。


ここに至るまで、細田守の主要な作品は皆「原作がある」のです。


サマーウォーズは実質的なウォーゲームのマイナーチェンジであり、ウォーゲームはデジモン原作の映画です。
ワンピースも当然ワンピースの原作です(ただし、原作とは乖離した内容)。

時をかける少女も原作となった実写映画がありますし。*4


ここで一つの疑念が持ち上がります。
それは「細田守はオリジナル作家ではないのではないか?」という疑念です。


すなわち、彼は「材料を加工するのがうまい一流シェフ」であって、
「そのまま食べても美味しい野菜を作る農家」ではないのではないかという事です。


3度目のウォーゲーム

 

そんな中公開された竜とそばかすの姫。

その内容はサマーウォーズを焼き直したかのようなものでした。


思えば、これまでの細田守は先細りの過程を歩んでいた気がします。
おおかみこども、バケモノの子、未来のミライ、と作を追うごとに面白く無くなっていく。

(しかもそのどれもがオリジナル作品)


その突破口として、もはや自分の代名詞であるサマーウォーズを再びやる必要が出てきたのではないでしょうか。


しかし、その結果は散々なものでした。
竜とそばかすの姫はぼくらのウォーゲームの完成度を再認識させるとともに、「細田守ぼくらのウォーゲームから一歩も前に進んでいない」という認識を与えるに至ってしまいました。


悪いのは細田守か?


この現状を招いたのは細田守自身です。
オリジナル方向に傾倒し、完全オリジナルの新作を3年に一回くらいのペースで制作するスタイルを選んだのは彼です。


しかし、それを選ばせたのは誰なのでしょうか?


ぼくらのウォーゲームを評価せず、サマーウォーズを評価したのは誰なのか。
純粋な子どもたちの想いよりも、学校のマドンナと付き合いたいという煩悩に乗っかったのは誰なのか。
家族の断絶から目を逸らし、偽りの大家族で心を癒やしたのは誰なのか。


そう。全ては視聴者。
すなわち、僕たち自身が、細田守にあんな舵取りをさせたと言えてしまうのです。


だから僕は、一概に彼を責めることが出来ません。
なぜなら僕もまた、加害者の一人なのですから。


細田守はどうすればいいのか?


では、細田守はこれからどうすればいいのでしょうか?
簡単な事です。
キッズアニメの映画を作ればいいのです。


そもそも原作なしのオリジナル作品を作るから無理が出るのです。
細田守は原作がある作品で最大限の力を発揮してきた歴史があるのですから、再びキッズアニメをやればいい。
(まぁ、大人になってしまった細田守には、もう子どもの純粋さを描くことが難しくなっているかも知れませんが……)


大衆はおそらく目もくれないでしょう。
しかし、僕は見てみたいです。
細田守が監督したプリティーリズムとか。


最後に


というわけで、細田守に対する熱い気持ちを文字に起こさせていただきました。
ぼくらのウォーゲームは、僕の好きな映画の中でもトップランクに位置する作品です。


そんな作品を監督した細田守に、こんなところで立ち止まってほしくはありません。
その想いを糧に、こうして記事を書きました。


ぶっちゃけ金払って映画館行って見たのは未来のミライだけですが、応援してます。
お金は払いません。

 


以上、

竜とそばかすの姫を見てない人間がウォーゲームだけの知識でそばかすについて語る記事でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:『ウォーゲーム』だと別の小説のタイトルになっちゃうんですが便宜上ウォーゲームと記述してます

*2:太一がまだ小学校低学年なのに目玉焼きを作っている事からも、それが伺えます。

*3:まぁウォーゲームは尺が短いというのも理由の一つでしょうが

*4:ちなみに実写映画版はバッドエンドです。グーグーガンモの最終回みたいな感じ。