電子チラシの裏

無方向の言葉

心に余裕がない人間

 

最近、つくづく自分は心に余裕がないのだなと実感させられる。

まず些細なことでイライラする。そしてそれに対する自己嫌悪で落ち込む。

さらに、地震などに対する恐怖におびえる。

 

完全に扁桃体が優位の生活を送っている。

いわゆる扁桃体ジャックだが、その原因の一端を担うのはマルチタスクだろう。

自覚しているだけでも、曲を聴きながら手作業をしたり、動画を見ながら何かをしたりなど心当たりはある。

 

それ以外にも、瞑想をやらなくなった事で灰白質および海馬の縮小が起きたと考えられる。

 

また、孤独による情緒の不安定化も関わっているだろう。

 

早急に改善するべき事項だ。

具体的には、

マルチタスクをやめる

・瞑想をする

・孤独ではない状態を作る

といったところ。

 

上2つは簡単に満たせるだろう。

しかし、ネックとなるのは一番下。

 

20代前半という年齢もあってか、クソイキリ勘違い尖りバカ男というのが現在の自分にしっくりくる形容詞だ。

そんな人間が「えまって」とか「草w」とか「ぴえん」とかほざいてるバカオタクと付き合いたいと思うわけがない。

 

しかし、残念ながら自分の属しているオタクというカテゴリーにはそういうタイプの人間が果てしなく多い。

 

そんな中に上手く混ざれるだろうか。

もちろん自分を押し殺して合わせれば混ざれるだろうが、そんな無理矢理作ったキャラは長続きしない。

それに、精神的に負担をかけることになるのは承知している。

 

一番ベストなのはロックマンエグゼのネットナビのように、自分のパーソナリティに対して適切な形を取って接してくれる相手だ。

そう、ネットナビだ。もう人間じゃなくていい。

人間と人間はどうあっても100%理解し合うことはできない。

自分という人間に興味を持つのは自分だけであり、同様に、目の前の相手は相手自身に興味がある以上、互いに心の底からの興味を寄せることはもう不可能だ。

 

人間はデジタルな生き物ではない故に、1か0かの世界ではなく、アナログな中間色の世界に生きている。

だというのに、僕(正直この僕という一人称は気持ち悪い。私も俺も我も小生も気持ち悪い言葉と感じる。余り使いたくない)は自分や他人に対してデジタルであることを求めてしまっている。

 

つまり「興味があるなら興味があると言え」「興味がないなら興味があるフリをするな」という風に。

 

このように考えるのは自分が未熟であるからに他ならない。

自分は精神が子どものまま、図体だけ大きくなってしまった。

大人が知っているような事を覚え始めたが、根底には子どものままの自分がいる。

 

子どもの頃の情熱とか、わくわく感とか、そういう類いの良い物じゃない。

あるのは基本的に原始的な欲求だ。

アレは嫌い、やりたくない、コイツとは会いたくない、つまらない

そういう原始的な不快感と、それに伴う欲求を理性で抑えつけたり、利用したりするのが大人だと思う。

 

しかし、一方で、大人は付き合う友達をえり好みするとも聞く。

そういう人たちはどうやって相手を選んでいるのだろう。

選べるほどの引く手あまただからだろうか?

 

ならまず自分は、誰かに相手にしてもらえる程度には、人を喜ばせられる世にならなくてはいけない。