3年前の俺、信じられないくらいバカだなと思ったらもう3年前じゃなくて4年前
このブログを始めたのは2017年の夏だった。
忘れもしない。僕の人生に訪れた二度目の絶頂期。
人生が楽しかったあの頃だ。
↑あの頃
あの頃の自分を見ているといくつか思うことがある。
が、一番大きいのは「コイツマジで頭悪すぎだろ」ということだ。*1
なんというか、行動した結果何が起きるかというのを全く考慮しない無鉄砲な生き方をしていたように思う。
しかし、その無鉄砲さによって切り開けたものもある(あるよな?)以上、今の自分にはない強みだったのかも知れない。
そういう挑んでいく姿勢は今も見習いたい。
とはいえ、その当時の勢いがあったのは、Twitterという一種の安全基地があったからできたことだと思う。
今の僕はそれを失い、完全に羽をもがれた形だ。
おかげで昔を懐かしみ、「あの頃に戻りたい……」などとのたまう情けない大人になってしまった。
もちろん本気ではない。
実際に戻れば戻ったで、また受験勉強や親族の死を経験しなければならないという苦痛が待っている。
そういえば中学の頃の先生は、今の僕と同じようなことを言いながら「辛いこともいっぱいあったけど、それでも戻りたい」と言っていた。
僕はあの先生ほど今に絶望してはいないようだ。
それはそうと、親族の死で思い出したが「天国ってどんなシステムなんだろう」と考えるときがある。
天国というものが実在し、死んだ人間が行く場所だとするならば、それはどんな場所なのか大いに興味がある。
例えば、祖母が死に、数十年後に孫も死んだとする。
そうなったとき、孫が知っている祖母は「おばあちゃん」としての祖母だ。
しかし、祖母にも当然親がいて、親から見れば「娘」だ。
この場合、祖母の姿は「おばあちゃん」と「娘」のどちらなのだろうか?
仮に、どの姿を取るかが本人の意志で決まるとするなら、祖母は「おばあちゃん」としての姿を取り、親との再会を拒んででも孫に会いたいと思うのだろうか?
もしそのように事が運んだとしても、孫側は孫側で自分の子どもたちより(孫が生きた数十年で子どもができていたとする)もおばあちゃんに会いたいと思うのだろうか?
という囚人のジレンマ的疑問が浮かぶ。
あとは単純に数の問題だ。
天国という場所の容量が分からない。
地球上のすべての死んだ人間がそこに入るのなら、地球何個分の土地があれば足りるのか?
それから、天国が生まれ変わるまでの待機場所だとするなら、なぜ生まれてくる数と死んでいく数が一致しないのか?
そもそも使用言語はどうなるのか?
天国には人間以外もいけるのか?
もしいけないなら、なぜ人間だけが天国に行けるのか?
この辺でやめよう。
「サンタクロースっているんですか!? 証拠を出して下さいよ!!」みたいなバカげた事を言っている自覚はある。
天国の存在を意識することで、少し肩の荷が下りる。
「ろくに親孝行できなかったけど……天国で見ていてくれ」
などと言ってモチベーションに変えていくことはできる。
だけど、それは逃げでもある。
「自分は親が生きている内に親孝行をしてやれなかった」という罪悪感を、適当な言い訳で回避しているに過ぎない。
自分の行動の結果として罪悪感を抱えることになったのなら、僕はそれを抱きかかえたまま生きるべきなのではないかと思う。
誰かのためにしてあげられなかった残酷な自分の性質に傷つくかも知れないが、もっと残酷なことに、人は昔のことなど忘れる。
辛いことであればなおのこと
*1:まあ現在進行形で頭が悪い自分のことなので、数年後には全く同じ事を言っているかも知れない