電子チラシの裏

無方向の言葉

敗戦処理としてのVTuberオタク

 

Vtuber(以下、V)というジャンルに対するファンというのは、熱狂的である印象がある。

熱狂的で、むしろ狂気という言葉が似合うような感覚。

 

スパチャで何十万という金を積む事もある。

このようなVオタクの生態について考えてみたが、自分なりに結論が出た。

 

今のところ、Vオタクは「敗戦処理」であると考えられる。

敗戦とはすなわちリアルでの、こと恋愛における敗北である。

敗戦処理としてとらえるならば、アニメオタクやアイドルオタクなども亜種的な存在であると言える。

1,敗戦処理とは

 

リアルでの絶望感により挑戦しなくなった状態が、ここで言う「敗北」だ。

具体的に言えば、「どうあがいても美少女とはつきあえない」という絶望である。

クラスでも職場でも道ばたでも、イケメンが上から順番に取っていく。

微妙な人間は、どう頑張っても微妙な人間としかつきあえない。

 

これは男だけでなく、女も同様だ。

モテる順に上から取っていくので、微妙な男しか市場に残らない。

 

「どうせ大した相手とつきあえないなら架空の存在に思いを寄せることでその代替としよう……」という無意識下の動きがVやアイドルに熱中するきっかけであり、それこそが敗戦処理なのではないか。*1

 

一種の防衛機制や、セルフハンディキャッピングととらえれば、このような情動の動きがあってもおかしくはないように思える。

以下はおかしくないという体で話を続ける。

 

2,敗戦処理で勝とうとするオタク

 

1,でVのファン活動をすることが敗戦処理であることは語った。

敗戦処理とは、いわば負けが確定した状態からどのような形で撤退するかを決めるものだが、鍵となるのは「いかにダメージを抑えて負けるか」だ。

 

リアルでの敗北を引きずらないですむように、リアルを忘れさせてくれるような体験をしなくてはならない。

負けた記憶を想起させるのはPTSD的フラッシュバックに等しい。

であるならば、本来ファンは全員が同じラインに立ち、そこから先には進まない「不告白同盟のようなもの」でつながれていなければならない。

そうでなければ、傷を癒やす空間としての機能が働かない。

 

……にもかかわらず、時折、Vに告白する人間を見かける。

あるいは冒頭に挙げたように、何十万という金を乗せたスパチャを放り込む人間もいる。

そのせいでここに競争が生まれ、それによる軋轢も生じる。

 

皆が平等な同じ位置にいるのならば、このように皆より一歩先んじようとする必要はない。

彼らが何を思ってこのようなことをするのかは分からない。

リアルで勝てなかったからこそ、ここで勝たなければならないと思ったのか。

それともここでなら勝てると思ったからなのか。

 

どちらにせよ、Vコミュニティは、セラピーとしての役割を果たせなくなってきている。

それだけは確かだ。

 

3,オタクの敗北宣言

 

ここ最近になって、あるシチュエーションの作品が爆発的に増えている。

 

それは、からかい上手な某に連なる「モブ主人公なボクだけど なぜかクラス一の美少女だけが話しかけてくれる……!?」系の作品である。

 

以前はこのタイプの作品はそこまで目立っていなかったが、今は石を投げればこのような作品に当たる。

 

このタイプの作品は、ファンタジーであると言わざるを得ない。

ファンタジーというと、剣と魔法の……というイメージがある。

しかし、ファンタジーの定義はそれとは別のところにある。

ファンタジーの定義は「現実ではあり得ないことを描いた作品」である。

 

つまり、この定義に乗っ取れば、ドラえもんスターウォーズガンダムもファンタジーなのである。

そして、からかい上手な某に連なる作品もまた、ファンタジーだ。

 

冷静に考えて、クラスのモブに、クラス一の美少女が話しかける理由がない。

家族を人質に取られているとか、催眠で操られているとか。

(最悪の場合、「罰ゲーム」で話しかけている可能性だってある)

話しかけられるだけでもあり得ないのに、さらに恋愛感情を抱かれるなんてもってのほか。

 

そもそも恋愛というのは、「魅力度の釣り合った者同士」の間でしか成立しない。

未来日記のヒロインのように「極端に自己肯定感の低い(と予想される)少女」ならクラスのモブに恋をするのは考えられる。

(あとは、幼なじみで昔から一緒に居るなど特別なつながりがあればあり得る)

 

しかし、クラス一の美少女だ。

クラス一の美少女という事は、小さい頃からかわいかったはずだ。

家族、親戚、先生、友達など、周りの人間にとにかく褒めそやされて育ったようなヤツが、はたして自己肯定感の低い人間に育つだろうか?

 

そんな完全自己承認少女と、存在希薄モブがバランスするほど、天秤はいい加減なのだろうか?

 

このような作品を作っている人たちは、多分それを分かっている。

分かった上でやっている。

 

以前と比べて、からかい上手な某のような作品が増えたのは、もう「オタクが恋愛をできるような時代ではなくなった」からではないだろうか。

 

「リアルに立ち向かおうね!」

「ここじゃないどこかに旅立とうね!」

というメッセージを語り続けていた2000年代作品だったが、2010年代以降は徐々に違った形のものが増え、

現在は

「最初からリアルは最高だったぜ!」

「ここはこんなに気持ちいいからここに居るぜ!」

というオタクの妄想全開な作品がメインストリームになってきた。

 

巨人の星が流行ったのは若者のスポーツ離れが深刻化した頃だ。

何かが失われたとき、失われた何かを描いた作品が流行るとするならば、

今という時代は「夢すら見られなくなった過酷な冬」という事なのかも知れない。

 

*1:これに関連して、「女性にジャニオタが多いのはディズニー映画のせいではないか?」と考えている