電子チラシの裏

無方向の言葉

承認欲求から切り離されたい

 

人間を人間たらしめているものの一つが、おそらく承認欲求だろう。

その起源は、多分、人類が原始人として生きていた頃にさかのぼる。

 

彼らは群れで行動していた。

巨大なマンモスや、サーベルタイガーに立ち向かうには、高度の連携が必要だった。

そのため、「運動能力が低い」「頭が悪い」「体に障害がある」などの要素を持つ人を群れから排除していた。

進化心理学のでは、これが「いじめ」の起源とされている。

 

たぶん承認欲求の起源もこれとかぶる。

「群れのみんなに認めてもらえないと、群れから追い出されてしまう」という危機感がそうだろう。

 

ところが、それからの何万何千年という月日で、世界は激変した。

人類は食物連鎖から抜け出し、群れをなして狩りをする必要もなくなってしまった。

かくして、狩りはしないが「狩りをする上でのチームワークに必要だった承認欲求」は残ってしまったのだろう。

 

その承認欲求に、人類は振り回され続けている。

自分自身を含めて、本当にそう思う。

自分で自分を承認できない人間は、他人からの承認によって満たそうとする。

 

その結果、思ったように承認を得られず心を病む。

最終的に自殺を選ぶ人も多い。

 

どうすれば承認欲求から解放されるのだろうか。

方法として妥当なものは以下の数個になる。

 

・自己承認する

・自分だけの群れを作る

・出家する*1

 

まず自己承認だ。

これを実践するには、自分の手柄を誰かに見せびらかせばいい。

そうすれば、褒めてくれる人は褒めてくれる。

 

しかし、一方で反感を持つ者も現れる。

いわばこれは諸刃の剣なのである。

しかし、元来(西洋の)剣とは諸刃である。

諸刃の剣というのは何かを言い当てているようでもあり、言い当てていないようでもある。

 

とにかくこの剣を振り回していれば、そのうち群れができる。

自分の事を慕ってくれるイエスマン達の群れだ。

そこはさぞかし気持ちの良かろう。

 

そういう世界ができれば自分はそれで良いかもしれない。

しかし、イエスマンたちのことを思うと、気の毒でならない。

 

彼らは人生の時間を自分のためでなく、他人のためだけに使っていることになる。

それはある種奴隷のようにも思えて、なんとも気持ち悪い。

ついでに言えばここまでダラダラこんな記事書いてる自分も気持ち悪い。

というかもうめんどくさい楽しくない終了

*1:Twitter大喜利クソ坊主を見るに、たとえ出家しても、承認欲求からは逃れられないのかも知れない。